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鈴川、栗原川へ 板戸川へ

 現在、研究室で調査を行っている鈴川流域の河川は3つです。
 鈴川は丹沢大山の雄大な自然と伊勢原の温暖な気候から成り立っています。

伊勢原の人々の生活
鈴川の流れている伊勢原市は、神奈川県のほぼ中央に位置し、北西から南東に向かって山地・丘陵・台地・平野が並ぶ変化に富ん
だ地形からなっています。伊勢原の歴史は古く近年の遺跡などの発掘調査から約2万8千年ほど前にはもう人々が住み始めていたと
されています。
住み始めた当時は、主に狩猟で生活していたとされ、当時のものと思われる石器が出土しています。狩猟中心の生活では、特定の場所
に定住することは無く、獲物の動きに合わせて生活していたとされています。それらの移動型の生活が変わったのは稲作が伝来が関係して
きます。
現在から2千5百年ほど前に大陸や朝鮮半島から、稲作や鉄・青銅などが伝来しました。これまで自然の恵みに依存して生活していた祖先は
稲作によって自分たちで食料を生産できるようになります。また稲作により狩猟にもあまり頼らないようになるので、頻繁に移動する必要がなく
なり、人々は自分の気に入った土地に定住するようになります。
しかし、これらの年代以降、人々が争った形跡や、刃物の傷や矢じりが刺さった人骨などが発見されるようになり、稲作が伝来したことから新たな
文化が発生し、貧富や身分差が出始め人々の争いが始まったのではないかと考えられています。しかしそのような争いが起こった事を明確にする
出土品はまだ発見されていません。
このように伊勢原の雄大な土地には多くの人が集まり、様々な歴史や文化を残していきました。現在でも、その名残が多くの地域に残っています。

鈴川の名前の由来
  〜鈴川は昔、まだ伊勢原が相模の国と呼ばれていた頃、八菅の地(現在の愛川町地内)の峰の上に
不思議な幡が浮かび、幾日も動かない。
これを魔性の仕業と知った八菅の修験僧達がお祓いをしたところ怪しい幡はゆらゆらと南西へ流れて行った。
その頃、当時弓の名手と呼ばれた善波ノ太郎がこの怪しい旗を見つけて矢を放ち、旗を撃ち落とした。〜(平塚郷土誌辞典より)

 この旗についていた風鈴が川に落ちたことから鈴川と呼ぶようになったそうです。